一、はじめに
九月一五日から四日間に亘って行われた鹿児島民具学会の蒲生町の共同調査には、私は残念ながら最後の日一日だけしか参加出来なかった。とりわけ残念だったのは、漆地区の調査が出来なかったことだ。小野重朗氏の著書「南九州の民具」(慶友社、一九六九年)の中で「チャベロ」という呼称で紹介されている竹製茶乾燥器具は蒲生町漆のものである。本の口絵には、茶作りに勤しむ人と、複数置かれた「チャベロ」を写した写真が掲載されている。その印象が強く残っていて、蒲生町自体は商業的な意味では茶業が盛んと言えないものの、自家製茶作りには熱心で貴重な話をが聞けるのではないか、あるいは今でも継承されているのではないかという淡い期待を抱いていたからである。時間の都合で今回は果たせなったが、また機会があればぜひ調査してみたい。
時間的な制約に加えて、折悪しくも大雨にたたられ十分な調査が出来たとは言い難いものの、自家製茶作りに使用する民具と製造法について貴重な話を伺ったので、先行研究や郷土誌等に照らして事例報告をしたい。
二、蒲生町の自家製茶作りと民具
今回、漆地区は調査できなかったが、蒲生町白男薄原地区にて、竹製茶乾燥器具三体を見せていただいた。二体は話を聞かせていただいた原シズエさん宅の納屋の二階にあったもので、もう一体は、その隣戸の物置にあったものである。(写真①、写真②、写真③)
いずれもカゴの部分の直径は九〇㎝で高さが四〇㎝、上部のフタの高さは、原さん所蔵のものが一五㎝と二〇㎝、隣戸のものが二〇㎝である。
編み目の向きは違うものの、いずれもアジロ編みで編まれ結合部をツヅラカズラで結束している。原さん宅にあったものは、アジロ編みの網目が斜めになっていて見た目が美しいものであった。(写真④)また、大きな円になっているカゴが弛まないように、へギを縦に差し込み補強してある。原さんによると、所蔵している竹製茶乾燥器具は「チャベロ」といい、昭和六年生まれの原さんが物心ついたときから家にあったそうである。幾らか焦げて黒ずんではいるものの、まだ十分使用に耐えそうであった。
製造方法は、摘採してきた茶葉をその日または次の日に釜で炒り、一度だけ揉んで、後はチャベロの上で乾燥させてはバラに広げて冷ます工程を三回繰り返して完成に至るというものである。全行程に五~六時間を要したそうである。一○年前頃までは自家製茶作りを行っていたそうで、茶園は家のすぐ近所にまだあるということであった。
後日見せていただいた茶園は、実際は茶園ではなく畦畔茶ないしは垣根茶と呼ばれるものであった。大半はすでに引き抜いて一部だけ残しているというその茶樹は、在来種と思しき形状で、往時を偲ばせるものだった。(写真⑤)
三、近隣事例との比較
蒲生町からほど近いさつま町の竹製茶乾燥器具の事例を紹介し、比較してみたい。さつま町中津川弓乃尾集落で見せていただいた竹製茶乾燥器具は、カゴ部分の直径が九五㎝、高さが四七㎝、ふたの高さは一八㎝だった。カゴ部分はアジロ編みで編まれており、縁はツヅラカズラで結束してある。祁答院町の竹細工師に作ってもらったということであった。「チャカゴ」と呼んでおり、「チャベロ」という呼称は聞いたことがないとのことであった。製法は、釜炒り、揉みがそれぞれ一回ずつ、その後チャカゴで乾燥させバラに広げる。そして、翌日再度チャカゴで乾燥させていたそうである。
蒲生町の事例と比較すると、形状やサイズはほぼ同様であるが呼称と製法に違いがある。製法の違いは、乾燥工程をその日の内に行うか翌日再度行うかの違いであるが、他の事例の多くはその日のうちに終わらせている。乾燥工程を翌日再度行うことの意図はよくわからないということで慣例的に行っていたようである。呼称の違いについては次章で述べたい。
四、呼称について
鹿児島県下一帯で広く使用されてきた竹製茶乾燥器具は、従来「チャベロ」という呼称があてられることが慣例化してきた。しかし、さつま町の事例や他の地域での聞き取りにおいて、必ずしもどの地域でも「チャベロ」という呼称を使っていたわけではないことを確認している。大隅半島では「チャイテゴ」、「チャイイ」、「チャカゴ」といった呼称が多く、薩摩半島では「ヘロ」、「ヒロ」、「フロ」等という呼称も散見せられ、統一された呼称ではない。また、今回漆地区を調査した方が聞いた事例では「ヘロ」と呼んでいたということであった。
「チャベロ」という呼称は、おそらくは鹿児島県下で本格的な民俗、民具調査が始められた初期の調査研究時に紹介された事例における呼称が、一般的呼称として認識され定着していったものであると思う。以前の調査でははじめに呼称を確認せず、「チャベロ」という呼称を前提として聞き取りを行っていたことも多々あった。今後は、呼称の聞きとりも意識的に行いたい。
五、蒲生町の茶業
「蒲生町郷土誌」(鹿児島県蒲生町編、一九六九年)によれば、蒲生町における明治四四年の茶の製造戸数は一五二五戸であり、そのほとんどが自家用であるとのことである。園を仕立てて商業的に栽培を行っていたのではなく、畔や垣根に植えていたものを時期に摘んで自家用にしていたのであろうが、相当の戸数が製造していたわけである。鹿児島県では、煎茶と釜炒り茶の製造が分類が統計上なされている最後の年である明治二六年の段階で、釜炒り茶と番茶の製造が七〇%を超えている。既に、流通を目的とした蒸し製の煎茶作りが始まっていたことからしても、当時の自家製茶作りの大半は釜炒り製だったことが想定できる。とすれば、明治期における蒲生町の自家製茶も釜炒り製で作られていたであろう。
蒲生町における茶の製造戸数は、大正一二年に一五二〇戸、昭和七年に一五四三戸と大きな変動もなく推移している。
戦後、昭和三〇年に久末地区に緑茶工場が作られ、これが近代型設備を兼ね備えた茶工場の嚆矢となった。その後、昭和三六年に新留地区に紅茶工場が作られ、昭和四三年には緑茶工場が併設されている。また、昭和四九年には薄原地区にも緑茶工場が作られている。その間の、昭和四二年の製造戸数は一九○○戸、茶業振興会員数が六〇名である。蒲生町茶業振興会は、製茶技術の向上を目的として昭和三〇年に設立された組織で、要は商業的な茶業従事者の会である。戦後の鹿児島県の茶業振興策を受けて、蒲生町でも茶工場が設置されたことで、専業兼業の如何に関わらず商業的な茶業従事者が現れてきたわけである。
作付面積と製造量の変化を見て行くと、明治四四年は作付面積が不明で製造量が一五二〇貫(五七〇〇キロ)、大正一二年 は作付面積が四十五町二反で製造量が一八〇〇貫(六七五〇キロ)、昭和七年は作付面積が二三町で製造量が一九五〇貫(七三一二・五キロ)、昭和一六年は作付面積が不明で製造量が二二六〇貫(八四七五キロ)と戦前は漸次増産されている。作付面積が減少しているのは、茶の栽培を集約していったからか、測定の方法が変わったからであろうと推定する。
戦後は、昭和二七年の作付面積が一一町八反で製造量が一六八〇貫(六三〇〇キロ)といずれも戦前より減少している。昭和二八年に鹿児島県が発行した「茶業統計」によると、昭和二七年の蒲生町の茶製造は、本茶園が二・七町で畦畔茶園が九・二町である。また栽培品種はすべて在来種で、紅茶の製造は行っていない。また、製造した者のうち約九割が自家用となっている。この段階では、商業的な茶作りはほとんど行われていない。しかし、昭和四二年は、煎茶の製造が一〇一〇〇キロ、紅茶の製造が九九〇〇キロで、本茶園が一一町、畦畔茶園が一五町である。昭和三〇年に町内に工場が作られ、鹿児島県全体でも茶業が振興し全国的な茶の供給基地になったことで、蒲生町でも茶の増産が図られ、商業的な茶業も行われ始めたことがわかる。また日本では、明治初期に大久保利通の先導の元、紅茶を殖産事業として国の貿易の柱に育てることが企図され、必ずしも成果を挙げないながらも連綿と製造されてきた。昭和三〇年代には、鹿児島県が紅茶を奨励し、それに呼応する形で蒲生町でも紅茶の製造が始まっている。前記の製造量の数字は「蒲生郷土誌」によるものであるが、他の資料では紅茶の製造が緑茶を凌駕しているものもあり、茶業においては後発である蒲生町が紅茶に注力したことがわかる。
昭和四二年当時の蒲生町の茶作りを概観するに、本格的な茶業に乗り出す農家も出始めたのと並行して、旧来の自家製茶作りが広く行われていたことが数字からうかがえる。製造戸数は一九〇〇戸に及び、畦畔茶園もまだ一五町もある。この調査報告冒頭で紹介した、「チャベロ」を持ち寄ってユイ作業している人々の写真が口絵に使われた小野重朗氏の「南九州の民具」が発行されたのが昭和四四年である。これもまた、当時の茶作りの様子を知る貴重な資料であり、数字を裏付けるものである。
昭和四六年、日本は紅茶の完全自由化に踏み切り、日本における紅茶製造は事実上消滅した。蒲生町でも紅茶の製造を中止し、速やかに緑茶製造に移行した。当時、紅茶の自由化はあらかじめ予見されうるものであり、鹿児島県の奨励策は見込みが甘かったと言わざるをえない。蒲生町はある意味被害者であったとも言える。
平成二二年の蒲生町の茶の作付面積は五七六aと、六町にも満たない。また、自家製茶作りもほぼ消滅している。蒲生町の茶作りが商業用も自家用も衰退していく中にあって、紅茶作りは復活している。町の施設や道の駅等で販売されており、特産品の一つになっている。(写真⑥)今後の振興を期待したい。
六、おわりに
鹿児島県には、知覧を始めとした茶の大生産地が点在する。そのため、蒲生町と茶とはあまり結び付けて語られることはない。しかし、かつて町内の多くの家庭で自家製茶作りが行われていた。しかも、それは昭和四〇年代にあっても広く行われており、ごく最近まで少ないながらも続けられてきたのである。食と農が一体化した社会では、必然的に相互扶助が求められる。小野重朗氏の本の、蒲生町漆の茶作りにおけるユイ作業の写真は、現代において失われつつあり、またその必要性が叫ばれている共助の精神が活写されている。モノクロの写真が醸し出しているものは、懐古趣味でもアナクロニズムでもなく、現代社会への問題提起である。
物事の変遷を調査し検証していくことは民俗、民具の研究には欠かせないテーマである。茶作り一つとっても、それは社会の変遷とパラレルな関係にある。便利で快適な生活を手に入れた戦後の日本社会で、一方では何が失われたのかを見直していく必要があり、民具の変遷はその手掛かりとなりうると思う。商業的な茶業が発展しなかった蒲生町だからこそその手掛かりが横溢している。また改めて調査したい。
最後に、話を聞かせていただいた蒲生町白男薄原の原シズエさんに改めて謝意を申し上げたい。
参考文献
小野重朗 一九六九 「南九州の民具」 慶友社発行
鹿児島県蒲生町編 一九六九「蒲生町郷土誌」
日高一雄著 一九八一 「蒲生の歴史と農業」
鹿児島県茶業振興連絡協議会編 一九八六 「鹿児島県茶業史」
中原尚文著 一九九八 「地理的にみた鹿児島の茶業」
鹿児島県編 一九五三 「茶業統計」
鹿児島県企画部統計課編 二〇一一 「鹿児島県の農業 2010年」







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